「倉急電鉄」の版間の差分

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=== 烏倉支社の設立 ===
=== 烏倉支社の設立 ===
 [[倉急烏倉線|烏倉線]]は、烏倉神社への参詣路線として'''烏倉電鉄'''が開業させたものである。陸上交通事業調整法に基づき'''島部鉄道'''傘下となった後は、[[若部駅]]~[[烏倉駅]]間で細々と運営を続けていたが、80年代初頭から親会社である島部鉄道が烏倉電鉄沿線から瀬田市内へ向かうバス路線を拡充。[[若部駅]]で[[瀬田電気鉄道|瀬田電鉄]]への乗り換えを強いる状態が災いし、烏倉電鉄の輸送人員は目減りするようになった。これに対して烏倉電鉄は島部鉄道へ陳情しているが取り合われなかった。またこの当時から瀬田電鉄線との間に車両搬入用の直通線はあり計画もあった。しかし親会社である'''島部鉄道'''が瀬田電鉄と対抗している以上、利益相反となる可能性があり実現には至らなかった。<br>
 [[倉急烏倉線|烏倉線]]は、烏倉神社への参詣路線として'''烏倉電鉄'''が開業させたものである。陸上交通事業調整法に基づき'''島部鉄道'''傘下となった後は、[[若部駅]]~[[烏倉駅]]間で細々と運営を続けていたが、80年代初頭から親会社である島部鉄道が烏倉電鉄沿線から瀬田市内へ向かうバス路線を拡充。[[若部駅]]で[[瀬田電気鉄道|瀬田電鉄]]への乗り換えを強いる状態が災いし、烏倉電鉄の輸送人員は目減りするようになった。これに対して烏倉電鉄は島部鉄道へ陳情しているが取り合われなかった。またこの当時から瀬田電鉄線との間に車両搬入用の直通線はあり計画もあった。しかし親会社である'''島部鉄道'''が瀬田電鉄と対抗している以上、利益相反となる可能性があり実現には至らなかった。<br>
 こうして困窮極まった状態の中、烏倉電鉄は倉急電鉄に吸収合併してくれるよう持ちかける。当初倉急電鉄は慎重な姿勢であったが、関南地区全体に事業展開するための橋頭保として烏倉電鉄の吸収合併を決定した。島部鉄道としては寝耳に水の話で激しく抗議したが、他の烏倉電鉄株主(主に沿線自治体)の賛同を得ており、かつ以上の事情があったため倉急電鉄は取り合わなかったという。<ref>週刊朝潮1988年5月12日発刊分、p35「ついに怒り爆発!烏倉電鉄の謀反」</ref>
 こうして困窮極まった状態の中、烏倉電鉄は倉急電鉄に吸収合併してくれるよう持ちかける。当初倉急電鉄は慎重な姿勢であったが、関南地区全体に事業展開するための橋頭保として烏倉電鉄の吸収合併を決定した。島部鉄道としては寝耳に水の話であり激しく抗議したが、他の烏倉電鉄株主(主に沿線自治体)の賛同を得ており、かつ以上の事情があったため倉急電鉄は取り合わなかったという。<ref>週刊朝潮1988年5月12日発刊分、p35「怒り爆発!烏倉電鉄の謀反」</ref>
 烏倉電鉄を合併した倉急は、'''烏倉支社'''を設立し、凍結されていた[[烏倉駅]]~[[智美丸子駅]]間の路線計画を実現。さらに[[瀬田電気鉄道|瀬田電鉄]]との乗り入れを開始した。また、[[丹浦鉄道]]との乗り入れに際し、[[JMR中央線]]の[[本浦本駅]]~[[丸江津駅]]間下り線の第一種鉄道事業者免許を取得した。路線名は、第16回運輸省[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E4%BA%A4%E9%80%9A%E5%AF%A9%E8%AD%B0%E4%BC%9A 都市交通審議会]関南地区部会により答申された桐立西部方面線計画と接続し、[[倉急七島線|七島線]]とした。