1,552
回編集
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
27行目: | 27行目: | ||
=== 咲島鉄道 === | === 咲島鉄道 === | ||
島の周囲約6kmの[[咲島]]に鉄道敷設の計画が持ち上がったのは明治後期である。江戸時代以前から海を隔てた七島(現:[[桐立市]])や御東(香海県)との交流は深く、また距離も近いことから人やモノの往来は多かった。そこで七島からの玄関口出坂港と、御東からの玄関口大岩港を結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。この計画は、七島まで到達した南海道鉄道(現:JMR[[南海道線]])を見て感銘した咲島地区の篤志家によるもので、将来の鉄道連絡線接続または国鉄線整備に備え、軌間は1067mmとされた<ref>大草源次郎「七島鉄道今昔」竹輪社、1988年、p32</ref>。<br> | 島の周囲約6kmの[[咲島]]に鉄道敷設の計画が持ち上がったのは明治後期である。江戸時代以前から海を隔てた七島(現:[[桐立市]])や御東(香海県)との交流は深く、また距離も近いことから人やモノの往来は多かった。そこで七島からの玄関口出坂港と、御東からの玄関口大岩港を結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。この計画は、七島まで到達した南海道鉄道(現:JMR[[南海道線]])を見て感銘した咲島地区の篤志家によるもので、将来の鉄道連絡線接続または国鉄線整備に備え、軌間は1067mmとされた<ref>大草源次郎「七島鉄道今昔」竹輪社、1988年、p32</ref>。<br> | ||
この計画によりまず咲島線(旧)、[[出坂駅]]~[[大岩駅]]間(南回り)が開通した。その後山がちな咲島地区各村落の相互連絡を目指し、[[大岩駅]]~[[出坂駅]](北回り)、[[中原駅]]~[[木古川駅]]、[[中原駅]]~南港(現:[[咲島港駅]])間を相次いで開通した。このため、現在でも咲島北部地域などは鉄道遺構を見ることができる場所もある。<br> | |||
咲島のほぼ全域に鉄道を敷設した後は、国鉄桐立駅から桐立港(現:[[桐立埠頭駅]])を結ぶ鉄道も計画していた<ref>島部鉄道「島部鉄道40年史」1955年、65頁</ref>が、[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 日露戦争]による資材高騰で頓挫している。<br> | |||
その後は咲島地域住民の足として活躍したが、1938年8月に施行された[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E4%B8%8A%E4%BA%A4%E9%80%9A%E4%BA%8B%E6%A5%AD%E8%AA%BF%E6%95%B4%E6%B3%95 陸上交通事業調整法]により、1940年に島部鉄道へと合併する。<br> | |||
=== 島部鉄道時代 === | === 島部鉄道時代 === | ||
咲島鉄道はじめ[[七島県]]周辺の鉄道事業者は陸上交通事業調整法に基づき、[[七島県]]内ほぼ全域において運営を行っていた島部交通に統合された。もともと乗合自動車業であった島部交通であったが、この合併を機に島部鉄道へと社名を改めている。咲島鉄道と時を同じくして合併した鉄道事業者としては、[[倉急烏倉線|烏倉電鉄]]、[[丸箱鉄道]]、桐立臨港鉄道などが挙げられる。<br> | 咲島鉄道はじめ[[七島県]]周辺の鉄道事業者は陸上交通事業調整法に基づき、[[七島県]]内ほぼ全域において運営を行っていた島部交通に統合された。もともと乗合自動車業であった島部交通であったが、この合併を機に島部鉄道へと社名を改めている。咲島鉄道と時を同じくして合併した鉄道事業者としては、[[倉急烏倉線|'''烏倉電鉄''']]、'''[[丸箱鉄道]]'''、桐立臨港鉄道などが挙げられる。<br> | ||
第二次大戦末期は軍関係の施設が多い桐立港への空襲が相次いだが、咲島地区へのものはほとんどなく戦争による甚大な被害は受けなかったが、[[咲西浜駅]]停車中の列車への機銃掃射により重軽傷者が出ている。<ref>七島県教育委員会「戦中の七島県」1964年、38頁</ref | 第二次大戦末期は軍関係の施設が多い桐立港への空襲が相次いだが、咲島地区へのものはほとんどなく戦争による甚大な被害は受けなかったが、[[咲西浜駅]]停車中の列車への機銃掃射により重軽傷者が出ている。<ref>七島県教育委員会「戦中の七島県」1964年、38頁</ref><br> | ||
戦後になると、'''島部鉄道'''では空襲を受けた各路線の復旧が急がれ、被害の少なかった咲島地区の車両更新などは後回しにされるようになった。さらに国策によるインフレ抑制で運賃値上げが認められず、島部鉄道の財政は困窮していく。桐立港と御東港を結ぶ行路が開かれると咲島地区における鉄道事業はより一層厳しさを増し、旧態依然の鉄道施設も相まって利用者は減少の一途をたどった。また[[丸箱鉄道]]や桐立臨港鉄道といった優良路線が独立し、従来の採算を挙げることも難しくなりつつあった。このような中で、咲島からの人口流出が目立ち始めた1973年、ついに'''島部鉄道'''は咲島地区の鉄道事業を廃止することを決定した。 | |||
=== 倉急電鉄へ === | === 倉急電鉄へ === | ||
廃線より数年後、咲島地区の鉄道事業を放棄した'''島部鉄道'''に代わり、地元資本による'''倉太急行電鉄'''が設立された。出願した路線は、国鉄[[中坂駅]]から[[七島県桐立市|桐立市]]東神および[[七島県咲島町|咲島町]]を経て、[[香海県]]国鉄[[伊戸倉太駅]]へ至る路線と、東神から分岐して[[坂急電鉄]][[七島駅]]に至る路線の二路線としている。一方、初期は廃止された路線の復活に着手し、[[咲島港駅]]~[[中原台駅]]間、[[中原台駅]]~[[上砥駅]]間、[[中原台駅]]~[[大岩駅]]間、[[中原台駅]]~[[木古川駅]]間(現:港線・島北線・木古川線・咲島線一部区間)を相次いで開業。<br> | |||
こうして咲島の鉄道建設がひと段落着いた頃、咲島住民長年の悲願であった[[咲島大橋]]計画が持ち上がった。倉急電鉄はこの計画に参加を表明。[[七島県桐立市|桐立市]]の協力もあり<ref>七島新聞1983年3月25日付朝刊</ref>、咲島大橋の延長線上にあった廃線――旧[[JMR南海道貨物線|南海道貨物線]]に接続し国鉄[[桐立駅]]貨物線跡地に乗り入れる[[倉急咲島線|咲島線]]を開業させた。これは当初の計画である東神(桐立市中心部)への乗り入れより利便性が低いものの、桐立市乗り入れは果たした。なお東神へは[[小島駅]]から[[桐立市電]]へ乗り換えることで向かえるほか、後に南海道貨物線を旅客化することで延伸した[[JMR桐立線|桐立線]]も[[小島駅]]に乗り入れるようになったため、ある程度の利便性は確保されている。<br> | こうして咲島の鉄道建設がひと段落着いた頃、咲島住民長年の悲願であった[[咲島大橋]]計画が持ち上がった。倉急電鉄はこの計画に参加を表明。[[七島県桐立市|桐立市]]の協力もあり<ref>七島新聞1983年3月25日付朝刊</ref>、咲島大橋の延長線上にあった廃線――旧[[JMR南海道貨物線|南海道貨物線]]に接続し国鉄[[桐立駅]]貨物線跡地に乗り入れる[[倉急咲島線|咲島線]]を開業させた。これは当初の計画である東神(桐立市中心部)への乗り入れより利便性が低いものの、桐立市乗り入れは果たした。なお東神へは[[小島駅]]から[[桐立市電]]へ乗り換えることで向かえるほか、後に南海道貨物線を旅客化することで延伸した[[JMR桐立線|桐立線]]も[[小島駅]]に乗り入れるようになったため、ある程度の利便性は確保されている。<br> | ||
一方で、桐立駅乗り入れ便宜への見返りとして西桐ニュータウン計画における鉄道建設(現:[[倉急西桐線|西桐線]])に着手することになった。この際西京乗り入れを画策し「[[桐立駅]]から十が原を通り国鉄[[美音倉駅]]に至る路線」として申請した。しかし営団の計画路線と重複していたため「十が原を通り国鉄[[鈴川駅]]に至る路線」とし、西京府内は地下鉄線への乗り入れ計画に変更している。このため西桐線はトロッコ規格に合わせて建設を行った。<br> | |||
その後西京側乗り入れ予定路線である五段下線が改軌されたことに合わせて西桐線も1067mm規格への改軌工事を行い、新規開業した[[倉急咲島線|咲島線]][[桐立駅]]~[[七島新町駅]]間および五段下線への直通運転を開始している。<br> | |||
本線格となった[[倉急咲島線|咲島線]]は[[七島新町駅]]~[[電鉄坊崎駅]]間も続けて開業し、電鉄坊崎駅から[[武高川電気軌道]]への直通運転を開始した。<br> | |||
=== 烏倉支社の設立 === | |||
[[倉急烏倉線|烏倉線]]は、烏倉神社への参詣路線として'''烏倉電鉄'''が開業させたものである。陸上交通事業調整法に基づき'''島部鉄道'''傘下となった後は、[[若部駅]]~[[烏倉駅]]間で細々と運営を続けていたが、80年代初頭から親会社である島部鉄道が烏倉電鉄沿線から瀬田市内へ向かうバス路線を拡充。[[若部駅]]で[[瀬田電気鉄道|瀬田電鉄]]への乗り換えを強いる状態が災いし、烏倉電鉄の輸送人員は目減りするようになった。これに対して烏倉電鉄は島部鉄道へ陳情しているが取り合われなかった。またこの当時から瀬田電鉄線との間に車両搬入用の直通線はあり計画もあった。しかし親会社である'''島部鉄道'''が瀬田電鉄と対抗している以上、利益相反となる可能性があり実現には至らなかった。<br> | |||
こうして困窮極まった状態の中、烏倉電鉄は倉急電鉄に吸収合併してくれるよう持ちかける。当初倉急電鉄は慎重な姿勢であったが、関南地区全体に事業展開するための橋頭保として烏倉電鉄の吸収合併を決定した。島部鉄道としては寝耳に水の話で激しく抗議したが、他の烏倉電鉄株主(主に沿線自治体)の賛同を得ており、かつ以上の事情があったため倉急電鉄は取り合わなかったという。<ref>週刊朝潮1988年5月12日発刊分、p35「ついに怒り爆発!烏倉電鉄の謀反」</ref> | |||
66行目: | 72行目: | ||
・[[倉急5100系|5100系]]<br> | ・[[倉急5100系|5100系]]<br> | ||
<br> | <br> | ||
・2800系(計画中) | ・2800系(計画中)<br> | ||
・3590系(製造中) | ・3590系(製造中)<br> | ||
・4500系(計画中) | ・4500系(計画中)<br> | ||
・6000系(製造中) | ・6000系(製造中)<br> | ||
・6500系(計画中) | ・6500系(計画中)<br> | ||
・7000系(製造中) | ・7000系(製造中)<br> | ||
・7500系(計画中) | ・7500系(計画中)<br> | ||
・8000系(計画中) | ・8000系(計画中)<br> | ||
・8500系(計画中) | ・8500系(計画中)<br> | ||
・9000系(計画中) | ・9000系(計画中)<br> | ||
・9500系(計画中) | ・9500系(計画中)<br> | ||
== 車両基地 == | == 車両基地 == |