倉急電鉄
倉太急行電鉄(くらふときゅうこうでんてつ 英: Kurafuto Express Corporation)は、七島県の全体と鳥丘県に鉄道路線を有する鉄道事業者で、準大手私鉄の一つである。倉急グループの中核企業。略称は倉急(くらきゅう)。舞経334(舞経平均株価)の構成銘柄の一社。
倉太という名称の由来は、香海県伊戸倉太を目指し建設された鉄道であることから。本拠地咲島における鉄道としては大正時代の咲島鉄道にルーツを持つ。この咲島鉄道はその後、1940年代に陸上交通事業調整法により島部交通(合併後に島部鉄道と改名)に合併している。しかし、戦後のインフレ対策としての運賃値上げ抑制により困窮した島部鉄道では、他の鉄道事業者同様咲島地区のような小規模鉄道を維持する余力はなく、1972年3月31日を持って咲島地区の営業路線を廃止している。
その後旧島部鉄道咲島地区の営業路線を再開するとともに、奈美内海の東西を連絡する鉄道構想をもって設立されたのが倉太急行電鉄である。
くらふときゅうこうでんてつ 倉太急行電鉄 |
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種類 | 株式会社 |
略称 | 倉急 |
本社所在地 | 七島県咲島町中原台 |
設立 | 現実時間:2014年7月9日 設定時間:1983年4月1日 |
業種 | 陸運業 |
代表者 | 代表取締役社長 たこたこ焼き |
関係する人物 | 南海渡(南鳥島支社長) |
外部リンク | なし |
歴史
咲島鉄道
島の周囲約6kmの咲島に鉄道敷設の計画が持ち上がったのは明治後期である。江戸時代以前から海を隔てた七島(現:桐立市)や御東(香海県)との交流は深く、また距離も近いことから人やモノの往来は多かった。そこで七島からの玄関口出坂港と、御東からの玄関口大岩港を結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。この計画は、七島まで到達した南海道鉄道(現:JMR南海道線)を見て感銘した咲島地区の篤志家によるもので、将来の鉄道連絡線接続または国鉄線整備に備え、軌間は1067mmとされた[1]。
この計画によりまず咲島線(旧)、出坂駅~大岩駅間(南回り)が開通した。その後山がちな咲島地区各村落の相互連絡を目指し、大岩駅~出坂駅(北回り)、中原駅~木古川駅、中原駅~南港(現:咲島港駅)間を相次いで開通した。このため、現在でも咲島北部地域などは鉄道遺構を見ることができる場所もある。
咲島のほぼ全域に鉄道を敷設した後は、国鉄桐立駅から桐立港(現:桐立埠頭駅)を結ぶ鉄道も計画していた[2]が、日露戦争による資材高騰で頓挫している。
その後は咲島地域住民の足として活躍したが、1938年8月に施行された陸上交通事業調整法により、1940年に島部鉄道へと合併する。
島部鉄道時代
咲島鉄道はじめ七島県周辺の鉄道事業者は陸上交通事業調整法に基づき、七島県内ほぼ全域において運営を行っていた島部交通に統合された。もともと乗合自動車業であった島部交通であったが、この合併を機に島部鉄道へと社名を改めている。咲島鉄道と時を同じくして合併した鉄道事業者としては、烏倉電鉄、丸箱鉄道、桐立臨港鉄道などが挙げられる。
第二次大戦末期は軍関係の施設が多い桐立港への空襲が相次いだが、咲島地区へのものはほとんどなく戦争による甚大な被害は受けなかったが、咲西浜駅停車中の列車への機銃掃射により重軽傷者が出ている。[3]
戦後になると、島部鉄道では空襲を受けた各路線の復旧が急がれ、被害の少なかった咲島地区の車両更新などは後回しにされるようになった。さらに国策によるインフレ抑制で運賃値上げが認められず、島部鉄道の財政は困窮していく。桐立港と御東港を結ぶ行路が開かれると咲島地区における鉄道事業はより一層厳しさを増し、旧態依然の鉄道施設も相まって利用者は減少の一途をたどった。また丸箱鉄道や桐立臨港鉄道といった優良路線が独立し、従来の採算を挙げることも難しくなりつつあった。このような中で、咲島からの人口流出が目立ち始めた1973年、ついに島部鉄道は咲島地区の鉄道事業を廃止することを決定した。
倉急電鉄へ
廃線より数年後、咲島地区の鉄道事業を放棄した島部鉄道に代わり、地元資本による倉太急行電鉄が設立された。出願した路線は、国鉄中坂駅から桐立市東神および咲島町を経て、香海県国鉄伊戸倉太駅へ至る路線と、東神から分岐して坂急電鉄七島駅に至る路線の二路線としている。一方、初期は廃止された路線の復活に着手し、咲島港駅~中原台駅間、中原台駅~上砥駅間、中原台駅~大岩駅間、中原台駅~木古川駅間(現:港線・島北線・木古川線・咲島線一部区間)を相次いで開業。
こうして咲島の鉄道建設がひと段落着いた頃、咲島住民長年の悲願であった咲島大橋計画が持ち上がった。倉急電鉄はこの計画に参加を表明。桐立市の協力もあり[4]、咲島大橋の延長線上にあった廃線――旧南海道貨物線に接続し国鉄桐立駅貨物線跡地に乗り入れる咲島線を開業させた。これは当初の計画である東神(桐立市中心部)への乗り入れより利便性が低いものの、桐立市乗り入れは果たした。なお東神へは小島駅から桐立市電へ乗り換えることで向かえるほか、後に南海道貨物線を旅客化することで延伸した桐立線も小島駅に乗り入れるようになったため、ある程度の利便性は確保されている。
一方で、桐立駅乗り入れ便宜への見返りとして西桐ニュータウン計画における鉄道建設(現:西桐線)に着手することになった。この際西京乗り入れを画策し「桐立駅から十が原を通り国鉄美音倉駅に至る路線」として申請した。しかし営団の計画路線と重複していたため「十が原を通り国鉄鈴川駅に至る路線」とし、西京府内は地下鉄線への乗り入れ計画に変更している。このため西桐線はトロッコ規格に合わせて建設を行った。
その後西京側乗り入れ予定路線である五段下線が改軌されたことに合わせて西桐線も1067mm規格への改軌工事を行い、新規開業した咲島線桐立駅~七島新町駅間および五段下線への直通運転を開始している。
本線格となった咲島線は七島新町駅~電鉄坊崎駅間も続けて開業し、電鉄坊崎駅から武高川電気軌道への直通運転を開始した。
烏倉支社の設立
烏倉線は、烏倉神社への参詣路線として烏倉電鉄が開業させたものである。陸上交通事業調整法に基づき島部鉄道傘下となった後は、若部駅~烏倉駅間で細々と運営を続けていたが、80年代初頭から親会社である島部鉄道が烏倉電鉄沿線から瀬田市内へ向かうバス路線を拡充。若部駅で瀬田電鉄への乗り換えを強いる状態が災いし、烏倉電鉄の輸送人員は目減りするようになった。これに対して烏倉電鉄は島部鉄道へ陳情しているが取り合われなかった。またこの当時から瀬田電鉄線との間に車両搬入用の直通線はあり計画もあった。しかし親会社である島部鉄道が瀬田電鉄と対抗している以上、利益相反となる可能性があり実現には至らなかった。
こうして困窮極まった状態の中、烏倉電鉄は倉急電鉄に吸収合併してくれるよう持ちかける。当初倉急電鉄は慎重な姿勢であったが、関南地区全体に事業展開するための橋頭保として烏倉電鉄の吸収合併を決定した。島部鉄道としては寝耳に水の話であり、地元新聞社を通じて「親会社の同意なくして身売りするとは甚だ礼を失する行為だ」と激しく抗議したが、他の烏倉電鉄株主(主に沿線自治体)の積極的賛同を得ており、かつ以上の事情があったため倉急電鉄は取り合わなかったという。[5]
烏倉電鉄を合併した倉急は、烏倉支社を設立し、凍結されていた烏倉駅~智美丸子駅間の路線計画を実現。さらに瀬田電鉄との乗り入れを開始した。また、丹浦鉄道との乗り入れに際し、JMR中央線の本浦本駅~丸江津駅間下り線の第一種鉄道事業者免許を取得した。路線名は、第16回運輸省都市交通審議会関南地区部会により答申された桐立西部方面線計画[6]と接続し、七島線とした。
路線
車両
・200系
・300系
・600系
・700系
・1000系
・1500系
・2000系
・2500系
・3000系
・3500系
・4000系
・5000系
・5100系
・2800系(計画中)
・3590系(製造中)
・4500系(計画中)
・6000系(製造中)
・6500系(計画中)
・7000系(製造中)
・7500系(計画中)
・8000系(計画中)
・8500系(計画中)
・9000系(計画中)
・9500系(計画中)
車両基地
・助が丘検車区
・新町検車区
・西桐台派出所
・丸子検車区