「倉太急行電鉄」の版間の差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
編集の要約なし
編集の要約なし
30行目: 30行目:
== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 咲島鉄道 ===
=== 咲島鉄道 ===
 島の周囲約6kmの[[咲島]]に鉄道敷設の計画が持ち上がったのは明治後期である。江戸時代以前から海を隔てた七島(現:[[桐立市]])や御東(香海県)との交流は深く、また距離も近いことから人やモノの往来は多かった。そこで七島からの玄関口出坂港と、御東からの玄関口大岩港を結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。この計画は、七島まで到達した南海道鉄道(現:JMR[[南海道線]])を見て感銘した咲島地区の篤志家によるもので、将来の鉄道連絡線接続または国鉄線整備に備え、軌間は1067mmとされた<ref>大草源次郎「七島鉄道今昔」竹輪社、1988年、p32</ref>。<br>
 島の周囲約6kmの[[咲島]]に鉄道敷設の計画が持ち上がったのは明治後期である。江戸時代以前から海を隔てた七島(現:[[桐立市]])や御東(香海県)との交流は深く、また距離も近いことから人やモノの往来は多かった。そこで七島からの玄関口出坂港と、御東からの玄関口大岩港を結ぶ軽便鉄道の敷設が計画された。この計画は、七島まで到達した南海道鉄道(現:JMR[[南海道本線]])を見て感銘した咲島地区の篤志家によるもので、将来の鉄道連絡線接続または国鉄線整備に備え、軌間は1067mmとされた<ref>大草源次郎「七島鉄道今昔」竹輪社、1988年、p32</ref>。<br>
 この計画によりまず咲島線(旧)、[[出坂駅]]~[[大岩駅]]間(南回り)が開通した。その後山がちな咲島地区各村落の相互連絡を目指し、[[大岩駅]]~[[出坂駅]](北回り)、[[中原駅]]~[[木古川駅]]、[[中原駅]]~南港(現:[[咲島港駅]])間を相次いで開通した。このため、現在でも咲島北部地域などは鉄道遺構を見ることができる場所もある。<br>
 この計画によりまず咲島線(旧)、[[出坂駅]]~[[大岩駅]]間(南回り)が開通した。その後山がちな咲島地区各村落の相互連絡を目指し、[[大岩駅]]~[[出坂駅]](北回り)、[[中原駅]]~[[木古川駅]]、[[中原駅]]~南港(現:[[咲島港駅]])間を相次いで開通した。このため、現在でも咲島北部地域などは鉄道遺構を見ることができる場所もある。<br>
 咲島のほぼ全域に鉄道を敷設した後は、国鉄桐立駅から桐立港(現:[[桐立埠頭駅]])を結ぶ鉄道も計画していた<ref>島部鉄道「島部鉄道40年史」1955年、65頁</ref>が、[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 日露戦争]による資材高騰で頓挫している。<br>
 咲島のほぼ全域に鉄道を敷設した後は、国鉄桐立駅から桐立港(現:[[桐立埠頭駅]])を結ぶ鉄道も計画していた<ref>島部鉄道「島部鉄道40年史」1955年、65頁</ref>が、[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89 日露戦争]による資材高騰で頓挫している。<br>
42行目: 42行目:
=== 倉急電鉄へ ===
=== 倉急電鉄へ ===
 廃線より数年後、咲島地区の鉄道事業を放棄した'''島部鉄道'''に代わり、地元資本による'''倉太急行電鉄'''が設立された。出願した路線は、国鉄[[中坂駅]]から[[七島県桐立市|桐立市]]東神および[[七島県咲島町|咲島町]]を経て、[[香海県]]国鉄[[伊戸倉太駅]]へ至る路線と、東神から分岐して[[坂急電鉄]][[七島駅]]に至る路線の二路線としている。一方、初期は廃止された路線の復活に着手し、[[咲島港駅]]~[[中原台駅]]間、[[中原台駅]]~[[上砥駅]]間、[[中原台駅]]~[[大岩駅]]間、[[中原台駅]]~[[木古川駅]]間(現:港線・島北線・木古川線・咲島線一部区間)を相次いで開業。<br>
 廃線より数年後、咲島地区の鉄道事業を放棄した'''島部鉄道'''に代わり、地元資本による'''倉太急行電鉄'''が設立された。出願した路線は、国鉄[[中坂駅]]から[[七島県桐立市|桐立市]]東神および[[七島県咲島町|咲島町]]を経て、[[香海県]]国鉄[[伊戸倉太駅]]へ至る路線と、東神から分岐して[[坂急電鉄]][[七島駅]]に至る路線の二路線としている。一方、初期は廃止された路線の復活に着手し、[[咲島港駅]]~[[中原台駅]]間、[[中原台駅]]~[[上砥駅]]間、[[中原台駅]]~[[大岩駅]]間、[[中原台駅]]~[[木古川駅]]間(現:港線・島北線・木古川線・咲島線一部区間)を相次いで開業。<br>
こうして咲島の鉄道建設がひと段落着いた頃、咲島住民長年の悲願であった[[咲島大橋]]計画が持ち上がった。倉急電鉄はこの計画に参加を表明。[[七島県桐立市|桐立市]]の協力もあり<ref>七島新聞1983年3月25日付朝刊</ref>、咲島大橋の延長線上にあった廃線――旧[[JMR南海道貨物線|南海道貨物線]]に接続し国鉄[[桐立駅]]貨物線跡地に乗り入れる[[倉急咲島線|咲島線]]を開業させた。これは当初の計画である東神(桐立市中心部)への乗り入れより利便性が低いものの、桐立市乗り入れは果たした。なお東神へは[[小島駅]]から[[桐立市電]]へ乗り換えることで向かえるほか、後に南海道貨物線を旅客化することで延伸した[[JMR桐立線|桐立線]]も[[小島駅]]に乗り入れるようになったため、ある程度の利便性は確保されている。<br>
こうして咲島の鉄道建設がひと段落着いた頃、咲島住民長年の悲願であった[[咲島大橋]]計画が持ち上がった。倉急電鉄はこの計画に参加を表明。[[七島県桐立市|桐立市]]の協力もあり<ref>七島新聞1983年3月25日付朝刊</ref>、咲島大橋の延長線上にあった廃線――旧[[南海道貨物線]]に接続し国鉄[[桐立駅]]貨物線跡地に乗り入れる[[倉急咲島線|咲島線]]を開業させた。これは当初の計画である東神(桐立市中心部)への乗り入れより利便性が低いものの、桐立市乗り入れは果たした。なお東神へは[[小島駅]]から[[桐立市電]]へ乗り換えることで向かえるほか、後に南海道貨物線を旅客化することで延伸した[[JMR桐立線|桐立線]]も[[小島駅]]に乗り入れるようになったため、ある程度の利便性は確保されている。<br>
 一方で、桐立駅乗り入れ便宜への見返りとして西桐ニュータウン計画における鉄道建設(現:[[倉急西桐線|西桐線]])に着手することになった。この際西京乗り入れを画策し「[[桐立駅]]から十が原を通り国鉄[[美音倉駅]]に至る路線」として申請した。しかし営団の計画路線と重複していたため「十が原を通り国鉄[[鈴川駅]]に至る路線」とし、西京府内は地下鉄線への乗り入れ計画に変更している。このため西桐線はトロッコ規格に合わせて建設を行った。<br>
 一方で、桐立駅乗り入れ便宜への見返りとして西桐ニュータウン計画における鉄道建設(現:[[倉急西桐線|西桐線]])に着手することになった。この際西京乗り入れを画策し「[[桐立駅]]から十が原を通り国鉄[[美音倉駅]]に至る路線」として申請した。しかし営団の計画路線と重複していたため「十が原を通り国鉄[[鈴川駅]]に至る路線」とし、西京府内は地下鉄線への乗り入れ計画に変更している。このため西桐線はトロッコ規格に合わせて建設を行った。<br>
 その後西京側乗り入れ予定路線である五段下線が改軌されたことに合わせて西桐線も1067mm規格への改軌工事を行い、新規開業した[[倉急咲島線|咲島線]][[桐立駅]]~[[七島新町駅]]間および五段下線への直通運転を開始している。<br>
 その後西京側乗り入れ予定路線である五段下線が改軌されたことに合わせて西桐線も1067mm規格への改軌工事を行い、新規開業した[[倉急咲島線|咲島線]][[桐立駅]]~[[七島新町駅]]間および五段下線への直通運転を開始している。<br>

案内メニュー