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この頃から瀬田電鉄の方針は国鉄への連絡から、将来的な[[七島県]]西部への都市間連絡へと傾いていくこととなる。 | この頃から瀬田電鉄の方針は国鉄への連絡から、将来的な[[七島県]]西部への都市間連絡へと傾いていくこととなる。 | ||
また、SRへ管理していた元国鉄線を譲渡し資金を得たことで初の自社車両の導入に踏み切る([[瀬田1000系電車]])。同時に他社への車両製造も見据えて'''[[瀬田車両製造]]'''を設立。しかしながらこの自社車両には製造上重大な欠陥があり、実際走行中に車内火災になった事例も存在する('''[[瀬田電車両火災事故]]''')。このような事例から瀬田電鉄は早期に1000系の廃車処分を実施し、同時に[[瀬田1500系電車|1500系]]と[[瀬田1700系電車|1700系]] | また、SRへ管理していた元国鉄線を譲渡し資金を得たことで初の自社車両の導入に踏み切る([[瀬田1000系電車]])。同時に他社への車両製造も見据えて'''[[瀬田車両製造]]'''を設立。しかしながらこの自社車両には製造上重大な欠陥があり、実際走行中に車内火災になった事例も存在する('''[[瀬田電車両火災事故]]''')。このような事例から瀬田電鉄は早期に1000系の廃車処分を実施し、同時に[[瀬田1500系電車|1500系]]と[[瀬田1700系電車|1700系]]を外部から受注し、安全性の向上に努めた。1979年に主に瀬田市南部の人口増加により、鳥丘県議会によって'''瀬田市分割・行政特区新設案'''が立案・可決され、瀬田市中心部に新瀬田市が誕生すると、その中心的鉄道である瀬田電鉄は、行政の働きかけもあって本社を新瀬田市に移設することとなった。したがって現在の瀬田駅南口に新しく瀬田電鉄本社ビルが建てられ、本社機能のほとんどが旧本社から移転することとなった。 | ||
当初は予定になかった鳥丘市延伸は実質的にSRが対抗路線となったことで不可欠な要素になり、若部以南の路線延伸は急ピッチで進められることになった。 | 当初は予定になかった鳥丘市延伸は実質的にSRが対抗路線となったことで不可欠な要素になり、若部以南の路線延伸は急ピッチで進められることになった。 | ||
この頃から[[鳥丘駅]]以南の路線建設の計画はあったとされるが、後に'''南鳥丘線'''と発表されるまでの経緯は謎に包まれている。 | この頃から[[鳥丘駅]]以南の路線建設の計画はあったとされるが、後に'''南鳥丘線'''と発表されるまでの経緯は謎に包まれている。 | ||
また高架化事業も徐々に進められ、瀬田〜當辺以外のほぼ全線が高架化された(当該区間は既に路線が入り乱れており、高架化は不可能と判断された)。 | また高架化事業も徐々に進められ、瀬田〜當辺以外のほぼ全線が高架化された(当該区間は既に路線が入り乱れており、高架化は不可能と判断された)。 | ||
ただこの頃から相次ぐ新車調達と路線工事で資金繰りが再び悪化し、[[瀬田1500系電車|1500系]]の置き換えとなるはずであった[[瀬田2200系電車|2200系]]の配備が遅れるなど、経営に問題も発生し始めることとなった。そのため、社内で大幅な[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%95 レイオフ] | ただこの頃から相次ぐ新車調達と路線工事で資金繰りが再び悪化し、[[瀬田1500系電車|1500系]]の置き換えとなるはずであった[[瀬田2200系電車|2200系]]の配備が遅れるなど、経営に問題も発生し始めることとなった。そのため、社内で大幅な[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%95 レイオフ]が実行され、将来的な業績回復を見込んだ解雇政策が打ち出された。結果として右肩下がりであった業績は徐々に回復し、レイオフした社員の再雇用が進むなど、社内の環境も再び良い方向へと向かった。 | ||
===現代=== | ===現代=== | ||
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1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。尚その頃に若部駅からの分岐線から複数の鉄道会社が直通の打診をしていたものの、利点が少ないことと臨海鉄道との直通工事の着工を急ぐためいずれも却下されている。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危うい状態になっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。 | 1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。尚その頃に若部駅からの分岐線から複数の鉄道会社が直通の打診をしていたものの、利点が少ないことと臨海鉄道との直通工事の着工を急ぐためいずれも却下されている。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危うい状態になっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。 | ||
この頃瀬田市近辺の治安が悪化しつつあったことから、2010年に鉄道保安部を解体し、[[瀬田電鉄警備課]]が発足。鉄道付近の警備のみならず、警察の手が出ない広範囲の警備も対応することになった。当初の効果は今ひとつであったが、背後にある人型巨大兵器の存在<ref>瀬田重工業HPより</ref> | この頃瀬田市近辺の治安が悪化しつつあったことから、2010年に鉄道保安部を解体し、[[瀬田電鉄警備課]]が発足。鉄道付近の警備のみならず、警察の手が出ない広範囲の警備も対応することになった。当初の効果は今ひとつであったが、背後にある人型巨大兵器の存在<ref>瀬田重工業HPより</ref>は最早公然の秘密と言って差し支えないものであり、その影響力は次第に大きくなっていった。2012年には、瀬田電鉄本社ビルが老朽化及び耐震性が当初の想定よりも'''大幅に下回っていた'''ことが明らかになり、全面的に建て替えることが決定した。 | ||
この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代の[https://ja.wikipedia.org/wiki/自動列車制御装置 ATC]保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。また、古くなっていた瀬田本線の駅のリニューアルも徐々に進められ、バリアフリー化等も進みつつある。 | この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代の[https://ja.wikipedia.org/wiki/自動列車制御装置 ATC]保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。また、古くなっていた瀬田本線の駅のリニューアルも徐々に進められ、バリアフリー化等も進みつつある。 |