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{| class="wikitable"
{{基礎情報 会社
|-
| 社名 = 瀬田電気鉄道株式会社
! せたでんきてつどう<br>瀬田電気鉄道!!|
| 英文社名 = Seta Electric Railway Co.,Ltd.
|-
| ロゴ = setalogo.png
| 種類 || 株式会社
| 画像 = 2023-04-19 21.12.09.png
|-
| 画像説明 = 瀬田電気鉄道本社ビル(2020年)
|略称 || 瀬田電鉄
| 種類 = 株式会社
|-
| 機関設計 =
| 本社所在地 || [[鳥丘県]]新瀬田市中央区
| 市場情報 =
|-
| 略称 = 瀬田電鉄
| 設立 || 1964年3月1日
| 国籍 = 日本
|-
| 本社郵便番号 = 178-0103
| 業種 || 陸運業
| 本社所在地 = [[鳥丘県]]新瀬田市南区4-2
|-
| 本社緯度度 = |本社緯度分 = |本社緯度秒 = |本社N(北緯)及びS(南緯) =
| 代表者 || 代表取締役社長 [[利用者:Triple-Zeta|Triple-Zeta]]
| 本社経度度 = |本社経度分 = |本社経度秒 = |本社E(東経)及びW(西経) =
|-
| 本社地図国コード =
| 外部リンク || [https://setarailway.xrea.jp/ 公式サイト]
| 本店郵便番号 =
|}
| 本店所在地 =
| 本店緯度度 = |本店緯度分 = |本店緯度秒 = |本店N(北緯)及びS(南緯) =
| 本店経度度 = |本店経度分 = |本店経度秒 = |本店E(東経)及びW(西経) =
| 本店地図国コード =
| 設立 = 1964年3月1日
| 業種 = 陸運業
| 法人番号 = 51200792552
| 統一金融機関コード =
| SWIFTコード =
| 事業内容 = 鉄道事業<br>レジャー事業
| 代表者 = いなくなった
| 資本金 = 8700万円
| 発行済株式総数 =
| 売上高 = 13億2300万円
| 営業利益 = 8億1000万円
| 経常利益 = 5億1300万円
| 純利益 = 9億6400万円
| 純資産 = 50億2500万円
| 総資産 = 80億5000万円
| 従業員数 =
| 支店舗数 =
| 決算期 = やりたいとき
| 会計監査人 = わし
| 所有者 =
| 主要株主 =
| 主要部門 =
| 主要子会社 = [[瀬田臨海鉄道]]
| 関係する人物 =
| 外部リンク = setarailway.xrea.jp
| 特記事項 =
}}


==概要==
==概要==
元々は[[鳥丘県]]内の国鉄新線となるはずだった路線を譲り受け(一部)、瀬田急行電鉄として運行を開始したのが始まりである<ref>新瀬田日報(1965年6月10日付)</ref>。運行開始時には国鉄製車両を主に使用していたが、社名変更後は自社車両での運用に切り替えられている。
元々は[[鳥丘県]]内の国鉄新線となるはずだった路線を譲り受け(一部)、瀬田急行電鉄として運行を開始したのが始まりである<ref>新瀬田日報(1965年6月10日付)</ref>。運行開始時には国鉄製車両を主に使用していたが、社名変更後は自社車両での運用に切り替えられている。


瀬田電気鉄道という名称は瀬田駅の使用開始とともに'''瀬田急行電鉄'''から変更されたものであるが、元々の由来として創業者の旧瀬田郡への強い思い入れがあったからとされている<ref>なぜ”瀬田電鉄“なのか 週刊新進 1989年10月号特集</ref>が、当時の資料からは、瀬田~鳥丘の路線着工時に'''北鳥丘急行電鉄'''という名前に変更する案も持ち上がっており、社内では概ね良好な評価を受けていたにもかかわらず、会合の結果としては瀬田という名称が残った<ref>社内会議録 第13項 瀬田急行電鉄</ref>ことが記されている。
瀬田電気鉄道という名称は瀬田駅の使用開始とともに'''瀬田急行電鉄'''から変更されたものであるが、元々の由来として創業者の旧瀬田郡への強い思い入れがあったからとされている<ref>なぜ”瀬田電鉄“なのか 週刊新進 1989年10月号特集</ref>が、当時の資料からは、瀬田~鳥丘の路線着工時に'''北鳥丘急行電鉄'''という名前に変更する案も持ち上がっており、社内では概ね良好な評価を受けていたにもかかわらず、会合の結果としては瀬田という名称が残った<ref>社内会議録 第13項 瀬田急行電鉄</ref>ことが記されている。これに関しては記録が存在しないため、原因は不明のままである。


また、SR線管内からの乗り換え表示時に'''瀬田電鉄'''と略されたことや、株式上場時に名前が長すぎる<ref>株式会社も合わせると10文字以上にもなる</ref>として省略していることから、正式な名称である瀬田電気鉄道の名はあまり有名ではない。ただし、社内文書やパンフレットなどの名称記載時は、文字数の都合から大きくは記載されていないが、おおむね正式名称で統一されている。
また、SR線管内からの乗り換え表示時に'''瀬田電鉄'''と略されたことや、株式上場時に名前が長すぎる<ref>株式会社も合わせると10文字以上にもなる</ref>として省略していることから、正式な名称である瀬田電気鉄道の名はあまり有名ではない。ただし、社内文書やパンフレットなどの名称記載時は、文字数の都合から大きくは記載されていないが、おおむね正式名称で統一されている。


現在は[[新瀬田市]][[瀬田駅]]から[[栄京市]][[鳥丘駅]]を結ぶ'''[[瀬田電気鉄道瀬田本線|瀬田本線]]'''と、同じく瀬田駅から鳥丘県南部沿岸を結ぶ'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''が存在する。湾岸線は'''[[瀬田臨海鉄道|臨海線]]'''(旧瀬田臨海鉄道線)に直通運転を行っているほか、瀬田本線は[[倉急烏倉線]]との相互直通運転を行っている。
現在は[[新瀬田市]][[瀬田駅]]から[[栄京市]][[鳥丘駅]]を結ぶ'''[[瀬田電気鉄道瀬田本線|瀬田本線]]'''と、同じく瀬田駅から鳥丘県南部沿岸を結ぶ'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''が存在する。湾岸線は'''[[瀬田臨海鉄道|臨海線]]'''(旧瀬田臨海鉄道線)に直通運転を行っているほか、瀬田本線は[[倉急烏倉線]]との相互直通運転を行っている。
このほか、鳥丘駅以南に瀬田本線から分岐する'''南鳥丘線'''(仮称)も計画<ref>鳥丘駅以南の延伸計画について.pdf 瀬田電気鉄道</ref>されている。
このほか、鳥丘駅以南に瀬田本線から分岐する'''南鳥丘線'''(仮称)も計画<ref>鳥丘駅以南の延伸計画について.pdf 瀬田電気鉄道</ref>されている。また、西鳥丘鉄道と共同で進める'''鳥丘新都心計画(仮)'''についても瀬田方面から新規路線を建設することが検討されている。
[[瀬田駅]]は[[SR(速度計旅客鉄道株式会社)|SR]]線や[[VGN]]線の駅も存在し、巨大なターミナル駅となっている。
[[瀬田駅]]は[[SR(速度計旅客鉄道株式会社)|SR]]線や[[VGN]]線の駅も存在し、巨大なターミナル駅となっている。
瀬田本線においては、部分的な高架化が進められているものの、瀬田駅付近は周辺環境との兼ね合いもあって工事が非常に難航するため、社内では今のところ検討されていない。
瀬田本線においては、部分的な高架化が進められているものの、瀬田駅付近は周辺環境との兼ね合いもあって工事が非常に難航するため、社内では今のところ検討されていない。
関南地方等で相互使用が可能な'''[[ToriCa]]'''と呼ばれる[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%89%84%E9%81%93%E6%8A%80%E8%A1%93%E5%8D%94%E4%BC%9A サイバネ規格]のICカード乗車券を発行している。


本社は瀬田駅近くの瀬田電鉄本社ビルに置かれる。このほか[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]の管轄である湾岸支社が存在する。
本社は瀬田駅近くの瀬田電鉄本社ビルに置かれる。このほか[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]の管轄である湾岸支社が存在する。
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==歴史==
==歴史==
===瀬田急行電鉄===
===瀬田急行電鉄===
旧瀬田郡から若部市、また鳥丘市への都市間連絡鉄道の計画自体は、第二次世界大戦前からあったとされる(ただし、そもそも旧瀬田郡自体の人口はあまり多くなかったため、そもそもの計画があったかどうかは怪しい)。国鉄ではまかないきれない地区の路線選定は費用の高さもあり困難を極めたとされる。
旧瀬田郡から若部市、また鳥丘市への都市間連絡鉄道の計画自体は、1930年代からあったとされる(ただし、そもそも旧瀬田郡自体の人口はあまり多くなかったため、そもそもの計画があったかどうかは怪しい)。国鉄ではまかないきれない地区の路線選定は費用の高さもあり困難を極めたとされる<ref>「鳥丘周辺の鉄道史」 20p</ref>。


第二次世界大戦により、[[鳥丘県]]内の被害も甚大であり、この計画は重要度が低いとしてさらに後回しにされることとなった。
大戦後、人口の少なさ故に疎開地域に指定されていた[[鳥丘県]]内の被害自体はさほどではなかったものの、占領下であり余裕がなかったこの時代では、この計画は重要度が低いとしてさらに後回しにされることとなった。
しかし戦後旧瀬田郡の人口は大幅に増加し、1955年には瀬田市へと改定し、都市として急速な発展を遂げていた。
しかし戦後旧瀬田郡への入植が急速に進み、爆発的に人口が増加し、1955年には瀬田市へと改定、都市として急速な発展を遂げていた。
ただ、日本における経済成長期を迎えつつあった1960年代半ばであっても、[[鳥丘県]]内の鉄道情勢は国鉄に依存し続ける状況が続いており、周辺住民は遠く離れた駅までバスや徒歩で向かうほかなかった。
ただ、日本における経済成長期を迎えつつあった1960年代半ばであっても、[[鳥丘県]]内の鉄道情勢は国鉄に依存し続ける状況が続いており、周辺住民は遠く離れた駅までバスや徒歩で向かうほかなかった。
そんな中、国鉄新線として開発され放棄されていた旧瀬田郡(現在の瀬田市)の廃線を利用して鳥丘県内の都市間を結ぶことを目的として'''瀬田急行電鉄'''が発足。しかし当初は国鉄瀬田駅から若部方面へ駅を近づけても当初の計画では[[若部市]]付近までしか財政上路線が伸ばすことができず、結果として瀬田方面終着駅であった'''瀬田中央駅'''は瀬田駅から徒歩で10分以上かかる中途半端な位置に立地してしまい、当初の経営も困難を極めた。旧瀬田本線が瀬田駅始発でないのはこれが理由である。ただし将来的な国鉄への直通連絡を見据えて軌間は狭軌(1,067mm)とされた。
そんな不満が蔓延る中、ある路線バスを運行していた会社が、国鉄新線として開発され放棄されていた旧瀬田郡(現在の瀬田市)の廃線を利用して鳥丘県内の都市間を結ぶことを目的として'''瀬田急行電鉄'''が発足。しかし当初は国鉄瀬田駅から若部方面へ駅を近づけても当初の計画では[[若部市]]付近までしか財政上及び土地確保の困難さから路線を伸ばすことができず、結果として瀬田方面終着駅であった'''瀬田中央駅'''は瀬田駅から徒歩で10分以上かかる中途半端な位置に立地してしまい、開業当時は予想の半分も利用客がいないなど、当初の経営も困難を極めた。旧瀬田本線が瀬田駅始発でないのはこれが理由である。ただし将来的な国鉄への直通連絡を見据えて軌間は狭軌(1,067mm)とされた。
しかし、瀬田急行電鉄の当時のターミナル駅だった瀬田市駅は国鉄瀬田駅とは2Km以上も離れており、国鉄との連絡は絶望的な状態であった。かろうじて瀬田〜若部間の連絡鉄道としての役割は果たしていたものの、国鉄鳥丘線の完全復旧も拍車をかけ、瀬田急行電鉄の鉄道事業はさらに絶望的な状態へと陥っていった<ref>「鳥丘周辺の鉄道史」 177項</ref>。
しかし、瀬田急行電鉄の当時のターミナル駅だった瀬田市駅は国鉄瀬田駅とは2Km以上も離れており、国鉄との連絡は絶望的な状態であった。かろうじて瀬田〜若部間の連絡鉄道としての役割は果たしており、バス事業などで一定の収益は上げていたものの、国鉄鳥丘線の完全復旧も拍車をかけ、瀬田急行電鉄の鉄道事業はさらに絶望的な状態へと陥っていった<ref>「鳥丘周辺の鉄道史」 177項</ref>。


===瀬田電鉄の発足===
===瀬田電鉄の発足===
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この頃から瀬田電鉄の方針は国鉄への連絡から、将来的な[[七島県]]西部への都市間連絡へと傾いていくこととなる。
この頃から瀬田電鉄の方針は国鉄への連絡から、将来的な[[七島県]]西部への都市間連絡へと傾いていくこととなる。


また、SRへ管理していた元国鉄線を譲渡し資金を得たことで初の自社車両の導入に踏み切る([[瀬田1000系電車]])。同時に他社への車両製造も見据えて'''[[瀬田車両製造]]'''を設立。しかしながらこの自社車両には製造上重大な欠陥があり、実際走行中に車内火災になった事例も存在する('''[[瀬田電車両火災事故]]''')。このような事例から瀬田電鉄は早期に1000系の廃車処分を実施し、同時に[[瀬田1500系電車|1500系]]と[[瀬田1700系電車|1700系]]を外部から受注し、安全性の向上に努めた。1979年に主に瀬田市南部の人口増加により、鳥丘県議会によって'''瀬田市分割・行政特区新設案'''が立案・可決され、瀬田市中心部に新瀬田市が誕生すると、その中心的鉄道である瀬田電鉄は、行政の働きかけもあって本社を新瀬田市に移設することとなった。したがって現在の瀬田駅南口に新しく瀬田電鉄本社ビルが建てられ、本社機能のほとんどが旧本社から移転することとなった。
また、SRへ管理していた元国鉄線を譲渡し資金の余裕が出たことで初の自社車両の導入に踏み切る([[瀬田1000系電車]])。同時に他社への車両製造も見据えて'''[[瀬田車両製造]]'''を設立。しかしながらこの自社車両には製造上重大な欠陥があり、実際走行中に車内火災になった事例も存在する('''[[瀬田電車両火災事故]]''')。このような事例から瀬田電鉄は早期に1000系の廃車処分を実施し、同時に[[瀬田1500系電車|1500系]]と[[瀬田1700系電車|1700系]]を外部から受注し、安全性の向上に努めた。1979年に主に瀬田市南部の人口増加により、鳥丘県議会によって'''瀬田市分割・行政特区新設案'''が立案・可決され、瀬田市中心部に新瀬田市が誕生すると、その中心的鉄道である瀬田電鉄は、行政の働きかけもあって本社を新瀬田市に移設することとなった。したがって現在の瀬田駅南口に新しく瀬田電鉄本社ビルが建てられ、本社機能のほとんどが旧本社から移転することとなった。


当初は予定になかった鳥丘市延伸は実質的にSRが対抗路線となったことで不可欠な要素になり、若部以南の路線延伸は急ピッチで進められることになった。同時に、旧瀬田市街・新瀬田市街北部からのアクセスの悪さが表面化し、瀬田電鉄は市と協力して'''瀬田北モノレール計画'''を水面下で進行し、現五百部駅付近に瀬田市街側の駅が建設されたものの、後述の資金繰りの悪化と瀬田線の延伸工事も伴って白紙撤回され、建設された駅は後にVGNに売却された。
当初は予定になかった鳥丘市延伸は実質的にSRが対抗路線となったことで不可欠な要素になり、若部以南の路線延伸は急ピッチで進められることになった。同時に、旧瀬田市街・新瀬田市街北部からのアクセスの悪さが表面化し、瀬田電鉄は市と協力して'''瀬田北モノレール計画'''を水面下で進行し、現五百部駅付近に瀬田市街側の駅が建設されたものの、後述の資金繰りの悪化と瀬田線の延伸工事も伴って白紙撤回され、建設された駅は後にVGNに売却された。
この頃から[[鳥丘駅]]以南の路線建設の計画はあったとされるが、後に'''南鳥丘線'''と発表されるまでの経緯は謎に包まれている。
この頃から[[鳥丘駅]]以南の路線建設の計画はあったとされるが、後に'''南鳥丘線'''と発表されるまでの経緯は謎に包まれている。
また高架化事業も徐々に進められているものの、五百部〜背岡間等一部のみとなっている。
また高架化事業も徐々に進められているものの、五百部〜背岡間等一部のみとなっている。
ただこの頃から相次ぐ新車調達と路線工事で資金繰りが再び悪化し、[[瀬田1500系電車|1500系]]の置き換えとなるはずであった[[瀬田2200系電車|2200系]]の配備が遅れるなど、経営に問題も発生し始めることとなった。そのため、社内で大幅な[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%95 レイオフ]が実行され、将来的な業績回復を見込んだ解雇政策が打ち出された。結果として右肩下がりであった業績は徐々に回復し、レイオフした社員の再雇用が進むなど、社内の環境も再び良い方向へと向かった。
ただこの頃から相次ぐ新車調達と路線工事で資金繰りが再び悪化し、[[瀬田1500系電車|1500系]]の置き換えとなるはずであった[[瀬田2200系電車|2200系]]の配備が遅れるなど、経営に問題も発生し始めることとなった。そのため、社内で大幅な[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%95 レイオフ]が実行され、将来的な業績回復を見込んだ解雇政策が打ち出された。結果として右肩下がりであった業績は徐々に回復し、レイオフした社員の再雇用が進むなど、徐々に回復の兆しを見せている。


===現代===
===現代===
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80年代後半になると烏倉電鉄は倉太急行電鉄に吸収合併され、この直通案は実現の見通しが立つこととなった。当初から隣県である七島県の主要私鉄であった倉太急行電鉄との直通は瀬田電鉄側では協議されていたこともあり、交渉は以後スムーズに進んだ。
80年代後半になると烏倉電鉄は倉太急行電鉄に吸収合併され、この直通案は実現の見通しが立つこととなった。当初から隣県である七島県の主要私鉄であった倉太急行電鉄との直通は瀬田電鉄側では協議されていたこともあり、交渉は以後スムーズに進んだ。
こうして烏倉線が誕生し、[[倉太急行電鉄]]との直通が実現した。
こうして烏倉線が誕生し、[[倉太急行電鉄]]との直通が実現した。その後、七島県の隣県である[[開島県]]の[[常総急行]]線および[[砥田開発鉄道]]線へと直通区間が拡大。この直通線全体を[[関南地方|関南地区]]と呼ぶ動きもある。


1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。尚その頃に若部駅からの分岐線から複数の鉄道会社が直通の打診をしていたものの、利点が少ないことと臨海鉄道との直通工事の着工を急ぐためいずれも却下されている。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危うい状態になっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。
1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。尚その頃に若部駅からの分岐線から複数の鉄道会社が直通の打診をしていたものの、利点が少ないことと臨海鉄道との直通工事の着工を急ぐためいずれも却下されている。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危険な状態となっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。


この頃瀬田市近辺の治安が悪化しつつあったことから、2010年に鉄道保安部を解体し、[[瀬田電鉄警備課]]が発足。鉄道付近の警備のみならず、警察の手が出ない広範囲の警備も対応することになった。当初の効果は今ひとつであったが、背後にある人型巨大兵器の存在<ref>瀬田重工業HPより</ref>は最早公然の秘密と言って差し支えないものであり、その影響力は次第に大きくなっていった。2012年には、瀬田電鉄本社ビルが老朽化及び耐震性が当初の想定よりも'''大幅に下回っていた'''ことが明らかになり、全面的に建て替えることが決定した。
この頃瀬田市近辺の治安が悪化しつつあったことから、2010年に鉄道保安部を解体し、[[瀬田電鉄警備課]]が発足。鉄道付近の警備のみならず、警察の手が出ない広範囲の警備も対応することになった。当初の効果は今ひとつであったが、背後にある人型巨大兵器の存在<ref>瀬田重工業HPより</ref>は最早公然の秘密と言って差し支えないものであり、その影響力は次第に大きくなっていった。


2012年には、瀬田電鉄本社ビルが老朽化及び耐震性が当初の想定よりも'''大幅に下回っていた'''ことが明らかになった<ref>瀬田駅に使用の耐震ゴム、数年で劣化する不良品か Ahoo!ニュース(2012年5月17日)</ref>。これについて瀬田電鉄側は建設管理業者とビルに使用されていた耐震ゴムを製造した業者を相手取り裁判へと発展した。この訴訟については、後に瀬田電鉄側に製造会社側が3700万円の慰謝料を支払うという形で和解が成立した。この問題により、瀬田駅ビルは再度総リニューアル工事を行い、2014年末に完成した。


この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代の[https://ja.wikipedia.org/wiki/自動列車制御装置 ATC]保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。また、古くなっていた瀬田本線の駅のリニューアルも徐々に進められ、バリアフリー化等も進みつつある。
この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代の[https://ja.wikipedia.org/wiki/自動列車制御装置 ATC]保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。また、老朽化によりバリアフリーなどの問題に課題があった、當辺駅、若部駅などの全面リニューアル工事が進められている。流入路線の増加に伴い、瀬田本線の瀬田~若部の複々線化が行われた。


===現在===
===現在===
97行目: 127行目:
* 2001年10月13日 新型車両[[瀬田2200系電車|2200系]]を発表。
* 2001年10月13日 新型車両[[瀬田2200系電車|2200系]]を発表。
==路線==
==路線==
[[ファイル:2019-08-07 13.43.08.png|サムネイル|瀬田本線當辺駅近辺を走行する車両]]
===瀬田本社===
===瀬田本社===
====瀬田本線系統====
====瀬田本線系統====
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===湾岸支社===
===湾岸支社===
{{Main|瀬田電気鉄道湾岸線}}
* 湾岸線
* 湾岸線
* 臨海線
* 臨海線
==他社線との直通==
==他社線との直通==
[[ファイル:2200inMiyaguchi.png|サムネイル|烏倉線を走行する2200系]]
[[ファイル:2200inMiyaguchi.png|サムネイル|烏倉線を走行する2200系]]
* [[倉太急行電鉄]] - 2005年2月7日より'''相互直通運転'''を開始。[[倉急烏倉線]]との直通となる。当初は[[瀬田駅]]から[[智美丸子駅]]までの直通であったが、後に相互直通区間が[[西京メトロ]]の美音倉駅まで区間が拡大した。当初は瀬田電鉄内のすべての車両が乗り入れていたが、投入車両の増加に伴い、[[瀬田2600系電車|2600系]]と[[瀬田3500系電車|3500系]]、[[瀬田2200系電車|2200系]]に限定されることとなった。尚、瀬田鯖内では倉急若部~智美丸子駅が建設(移設)されており、更に実際に稼働する保安装置が設置され、瀬田電鉄本線管内との合同でのダイヤが組まれている。[https://www.youtube.com/watch?v=UY2W8twbwmY 瀬田鯖第二回運転会]では、瀬田~智美丸子の通常運行が実現することとなった。
* [[倉太急行電鉄]] - 2005年2月7日より'''相互直通運転'''を開始。[[倉急烏倉線]]および[[七島線]]との直通となる。当初は[[瀬田駅]]から[[智美丸子駅]]までの直通であったが、後に烏倉線が[[砥田市駅]]まで延伸したことから、[[常総急行]]および[[砥田開発鉄道]]線への相互乗り入れを開始している。当初は瀬田電鉄内のすべての車両が乗り入れていたが、投入車両の増加に伴い、[[瀬田2600系電車|2600系]]と[[瀬田2200系電車|2200系]]、[[瀬田3000系電車|3100系]]に限定されることとなった。尚、瀬田鯖内では倉急若部~智美丸子駅が建設(移設)されており、更に実際に稼働する保安装置が設置され、瀬田電鉄本線管内との合同でのダイヤが組まれている。[https://www.youtube.com/watch?v=UY2W8twbwmY 瀬田鯖第二回運転会]では、瀬田~智美丸子の通常運行が実現することとなった。なお、撮影される写真や映像に瀬田電の車両ばかり移っているため、実質的には瀬田電鉄烏倉線なのではないかなどという噂が立っているが、言語道断であり、そんなことはありえる。


* [[瀬田臨海鉄道]] - 2010年3月17日より相互直通運転を開始。瀬田電鉄側からは4ドア車のみの乗り入れに限定される。2012年に瀬田臨海鉄道が瀬田電鉄グループの子会社となったことで、瀬田電鉄に正式に組み入れられ、'''瀬田臨海線'''と改名されることになった。
* [[瀬田臨海鉄道]] - 2010年3月17日より相互直通運転を開始。瀬田電鉄側からは4ドア車のみの乗り入れに限定される。2012年に瀬田臨海鉄道が瀬田電鉄グループの子会社となったことで、瀬田電鉄に正式に組み入れられ、'''瀬田臨海線'''と改名されることになった。
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==関連項目==
*[[比丘尼橋一夜城事件]]
==外部リンク==
==外部リンク==
[https://www.youtube.com/playlist?list=PLRajdkPWfjgMNSUpwd2_BjwWjY3labGkl Youtube再生リスト]
[https://www.youtube.com/playlist?list=PLRajdkPWfjgMNSUpwd2_BjwWjY3labGkl Youtube再生リスト]


==脚注==
==脚注==