「瀬田電気鉄道」の版間の差分

タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
56行目: 56行目:
1980年代になると、'''島部鉄道'''傘下の'''鳥倉電鉄'''との、若部駅での接続による直通案が持ち上がった。しかし当時の瀬田電鉄にとって島部鉄道は対抗他社であり、接続線の建設まではされ、鳥倉電鉄との交渉自体は進んだものの、親会社である島部鉄道側が取り合わなかったため、しばらく接続線があっても使用することができない状態が続いていた。
1980年代になると、'''島部鉄道'''傘下の'''鳥倉電鉄'''との、若部駅での接続による直通案が持ち上がった。しかし当時の瀬田電鉄にとって島部鉄道は対抗他社であり、接続線の建設まではされ、鳥倉電鉄との交渉自体は進んだものの、親会社である島部鉄道側が取り合わなかったため、しばらく接続線があっても使用することができない状態が続いていた。


ところが、鳥倉電鉄は倉太急行電鉄に吸収合併されたところで関係は改善した。当初から隣県である七島県の主要私鉄であった倉太急行電鉄との直通は瀬田電鉄側としてはこれ以上ない話でもあり、交渉は以後スムーズに進んだ。
80年代後半になると鳥倉電鉄は倉太急行電鉄に吸収合併され、この直通案は実現の見通しが立つこととなった。当初から隣県である七島県の主要私鉄であった倉太急行電鉄との直通は瀬田電鉄側では協議されていたこともあり、交渉は以後スムーズに進んだ。
こうして鳥倉線が誕生し、[[倉太急行電鉄]]との直通が実現した。
こうして鳥倉線が誕生し、[[倉太急行電鉄]]との直通が実現した。


1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危うい状態になっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。
1990年代に入ると、[[鳥丘県]]南部に位置していた'''[[瀬田臨海鉄道]]'''がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である'''[[瀬田電気鉄道湾岸線|湾岸線]]'''の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危うい状態になっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。


臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。
この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代の[https://ja.wikipedia.org/wiki/自動列車制御装置 ATC]保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、[[倉太急行電鉄]]との直通に合わせ、直通先である[[西京メトロ]]の保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。
 
車両もこの頃から大幅に種類も編成数が増え、瀬田検車場を新設することで増えた車両に対応するなどした。


==年表==
==年表==