瀬田電気鉄道
瀬田電気鉄道(せたでんきてつどう、英称:Seta Electric Railway Co., Ltd.)とは、鳥丘県新瀬田市に本社を置く、関南地方西部に位置する私鉄である。略称は瀬田電鉄。瀬田電気鉄道と、その子会社5社(有価証券報告書への記載義務のある連結子会社および有価証券報告書への記載義務のない非連結子会社を合わせた全子会社数)から構成されている瀬田電鉄グループの中核企業である。
瀬田電気鉄道本社ビル(2020年) | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | 瀬田電鉄 |
本社所在地 |
日本 178-0103 鳥丘県新瀬田市南区4-2 |
設立 | 1964年3月1日 |
業種 | 陸運業 |
法人番号 | 51200792552 |
事業内容 |
鉄道事業 レジャー事業 |
代表者 | いなくなった |
資本金 | 8700万円 |
売上高 | 13億2300万円 |
営業利益 | 8億1000万円 |
経常利益 | 5億1300万円 |
純利益 | 9億6400万円 |
純資産 | 50億2500万円 |
総資産 | 80億5000万円 |
決算期 | やりたいとき |
会計監査人 | わし |
主要子会社 | 瀬田臨海鉄道 |
外部リンク | setarailway.xrea.jp |
概要
元々は鳥丘県内の国鉄新線となるはずだった路線を譲り受け(一部)、瀬田急行電鉄として運行を開始したのが始まりである[1]。運行開始時には国鉄製車両を主に使用していたが、社名変更後は自社車両での運用に切り替えられている。
瀬田電気鉄道という名称は瀬田駅の使用開始とともに瀬田急行電鉄から変更されたものであるが、元々の由来として創業者の旧瀬田郡への強い思い入れがあったからとされている[2]が、当時の資料からは、瀬田~鳥丘の路線着工時に北鳥丘急行電鉄という名前に変更する案も持ち上がっており、社内では概ね良好な評価を受けていたにもかかわらず、会合の結果としては瀬田という名称が残った[3]ことが記されている。これに関しては記録が存在しないため、原因は不明のままである。
また、SR線管内からの乗り換え表示時に瀬田電鉄と略されたことや、株式上場時に名前が長すぎる[4]として省略していることから、正式な名称である瀬田電気鉄道の名はあまり有名ではない。ただし、社内文書やパンフレットなどの名称記載時は、文字数の都合から大きくは記載されていないが、おおむね正式名称で統一されている。
現在は新瀬田市瀬田駅から栄京市鳥丘駅を結ぶ瀬田本線と、同じく瀬田駅から鳥丘県南部沿岸を結ぶ湾岸線が存在する。湾岸線は臨海線(旧瀬田臨海鉄道線)に直通運転を行っているほか、瀬田本線は倉急烏倉線との相互直通運転を行っている。 このほか、鳥丘駅以南に瀬田本線から分岐する南鳥丘線(仮称)も計画[5]されている。また、西鳥丘鉄道と共同で進める鳥丘新都心計画(仮)についても瀬田方面から新規路線を建設することが検討されている。 瀬田駅はSR線やVGN線の駅も存在し、巨大なターミナル駅となっている。 瀬田本線においては、部分的な高架化が進められているものの、瀬田駅付近は周辺環境との兼ね合いもあって工事が非常に難航するため、社内では今のところ検討されていない。
本社は瀬田駅近くの瀬田電鉄本社ビルに置かれる。このほか湾岸線の管轄である湾岸支社が存在する。 直接の管轄ではないが、瀬田本社ビルには瀬田車両製造の本社も置かれており、実質的な子会社にあたる。また瀬田電鉄の車両整備も担当しているものの、車両製造課との関係の悪化により、最近では新造車両は提供していない。
特別課として、瀬田電鉄警備課が存在する。警備課は鉄道警察としての役割を果たしているほか、地区警備等も担当している。 過去には大型の人型機動兵器を運用したことがあるが、その存在は公にはされていない。
歴史
瀬田急行電鉄
旧瀬田郡から若部市、また鳥丘市への都市間連絡鉄道の計画自体は、1930年代からあったとされる(ただし、そもそも旧瀬田郡自体の人口はあまり多くなかったため、そもそもの計画があったかどうかは怪しい)。国鉄ではまかないきれない地区の路線選定は費用の高さもあり困難を極めたとされる[6]。
大戦後、人口の少なさ故に疎開地域に指定されていた鳥丘県内の被害自体はさほどではなかったものの、占領下であり余裕がなかったこの時代では、この計画は重要度が低いとしてさらに後回しにされることとなった。 しかし戦後旧瀬田郡への入植が急速に進み、爆発的に人口が増加し、1955年には瀬田市へと改定、都市として急速な発展を遂げていた。 ただ、日本における経済成長期を迎えつつあった1960年代半ばであっても、鳥丘県内の鉄道情勢は国鉄に依存し続ける状況が続いており、周辺住民は遠く離れた駅までバスや徒歩で向かうほかなかった。 そんな不満が蔓延る中、ある路線バスを運行していた会社が、国鉄新線として開発され放棄されていた旧瀬田郡(現在の瀬田市)の廃線を利用して鳥丘県内の都市間を結ぶことを目的として瀬田急行電鉄が発足。しかし当初は国鉄瀬田駅から若部方面へ駅を近づけても当初の計画では若部市付近までしか財政上及び土地確保の困難さから路線を伸ばすことができず、結果として瀬田方面終着駅であった瀬田中央駅は瀬田駅から徒歩で10分以上かかる中途半端な位置に立地してしまい、開業当時は予想の半分も利用客がいないなど、当初の経営も困難を極めた。旧瀬田本線が瀬田駅始発でないのはこれが理由である。ただし将来的な国鉄への直通連絡を見据えて軌間は狭軌(1,067mm)とされた。 しかし、瀬田急行電鉄の当時のターミナル駅だった瀬田市駅は国鉄瀬田駅とは2Km以上も離れており、国鉄との連絡は絶望的な状態であった。かろうじて瀬田〜若部間の連絡鉄道としての役割は果たしており、バス事業などで一定の収益は上げていたものの、国鉄鳥丘線の完全復旧も拍車をかけ、瀬田急行電鉄の鉄道事業はさらに絶望的な状態へと陥っていった[7]。
瀬田電鉄の発足
国鉄が分割され民営化すると、状況は一変しSR(速度計旅客鉄道株式会社)が鳥丘県内の国鉄の運営を引き継ぐことになった。また瀬田市内の復興状況も鑑みて瀬田急行電鉄内で社名変更の案が持ち上がり、社内会議の結果瀬田電気鉄道と北鳥丘急行電鉄の二案が最終的に候補として残ったが、最終的に瀬田電気鉄道に社名を変更し、現在の瀬田駅に駅を移転・新設させ、旧線をSRに売却処分した。この半ば無理矢理な拠点駅の移転により、現在の當辺駅~五百部駅間の急カーブが生まれた。瀬田電鉄としては既にあった住宅地への影響を最小限にした、という意向[8]である。また瀬田中央駅内にあった本社機能を瀬田市南部の新設されたビルの一部に移設し、このころ増加していた社員規模に対応した。 この頃から瀬田電鉄の方針は国鉄への連絡から、将来的な七島県西部への都市間連絡へと傾いていくこととなる。
また、SRへ管理していた元国鉄線を譲渡し資金の余裕が出たことで初の自社車両の導入に踏み切る(瀬田1000系電車)。同時に他社への車両製造も見据えて瀬田車両製造を設立。しかしながらこの自社車両には製造上重大な欠陥があり、実際走行中に車内火災になった事例も存在する(瀬田電車両火災事故)。このような事例から瀬田電鉄は早期に1000系の廃車処分を実施し、同時に1500系と1700系を外部から受注し、安全性の向上に努めた。1979年に主に瀬田市南部の人口増加により、鳥丘県議会によって瀬田市分割・行政特区新設案が立案・可決され、瀬田市中心部に新瀬田市が誕生すると、その中心的鉄道である瀬田電鉄は、行政の働きかけもあって本社を新瀬田市に移設することとなった。したがって現在の瀬田駅南口に新しく瀬田電鉄本社ビルが建てられ、本社機能のほとんどが旧本社から移転することとなった。
当初は予定になかった鳥丘市延伸は実質的にSRが対抗路線となったことで不可欠な要素になり、若部以南の路線延伸は急ピッチで進められることになった。同時に、旧瀬田市街・新瀬田市街北部からのアクセスの悪さが表面化し、瀬田電鉄は市と協力して瀬田北モノレール計画を水面下で進行し、現五百部駅付近に瀬田市街側の駅が建設されたものの、後述の資金繰りの悪化と瀬田線の延伸工事も伴って白紙撤回され、建設された駅は後にVGNに売却された。 この頃から鳥丘駅以南の路線建設の計画はあったとされるが、後に南鳥丘線と発表されるまでの経緯は謎に包まれている。 また高架化事業も徐々に進められているものの、五百部〜背岡間等一部のみとなっている。 ただこの頃から相次ぐ新車調達と路線工事で資金繰りが再び悪化し、1500系の置き換えとなるはずであった2200系の配備が遅れるなど、経営に問題も発生し始めることとなった。そのため、社内で大幅なレイオフが実行され、将来的な業績回復を見込んだ解雇政策が打ち出された。結果として右肩下がりであった業績は徐々に回復し、レイオフした社員の再雇用が進むなど、徐々に回復の兆しを見せている。
現代
1980年代になると、島部鉄道傘下の烏倉電鉄との、若部駅での接続による直通案が持ち上がった。しかし当時の瀬田電鉄にとって島部鉄道は対抗他社であり、接続線の建設まではされ、烏倉電鉄との交渉自体は進んだものの、親会社である島部鉄道側が取り合わなかったため、しばらく接続線があっても使用することができない状態が続いていた。
80年代後半になると烏倉電鉄は倉太急行電鉄に吸収合併され、この直通案は実現の見通しが立つこととなった。当初から隣県である七島県の主要私鉄であった倉太急行電鉄との直通は瀬田電鉄側では協議されていたこともあり、交渉は以後スムーズに進んだ。 こうして烏倉線が誕生し、倉太急行電鉄との直通が実現した。その後、七島県の隣県である開島県の常総急行線および砥田開発鉄道線へと直通区間が拡大。この直通線全体を関南地区と呼ぶ動きもある。
1990年代に入ると、鳥丘県南部に位置していた瀬田臨海鉄道がこの頃鳥丘県中部まで路線を伸ばしていた瀬田電鉄に連絡線の検討を打診する。当初瀬田電鉄側は利益が得られる見込みがないとして否定的な意見であったが、瀬田電鉄の想定よりも南部の発展が進んだことに加え、周辺住民の交通機関の不便さの訴えもあり、2007年、瀬田電鉄は臨海鉄道への連絡線である湾岸線の建設を開始。同時に臨海鉄道の瀬田側終着駅だった瀬田海浜駅を大幅に拡張・発展させ、瀬田電鉄の乗り入れに対応させた。尚その頃に若部駅からの分岐線から複数の鉄道会社が直通の打診をしていたものの、利点が少ないことと臨海鉄道との直通工事の着工を急ぐためいずれも却下されている。臨海鉄道は直通の打診をした頃に既に経営が危険な状態となっており、2012年に瀬田電鉄グループに正式に組み入れられた(完全子会社化)。
この頃瀬田市近辺の治安が悪化しつつあったことから、2010年に鉄道保安部を解体し、瀬田電鉄警備課が発足。鉄道付近の警備のみならず、警察の手が出ない広範囲の警備も対応することになった。当初の効果は今ひとつであったが、背後にある人型巨大兵器の存在[9]は最早公然の秘密と言って差し支えないものであり、その影響力は次第に大きくなっていった。
2012年には、瀬田電鉄本社ビルが老朽化及び耐震性が当初の想定よりも大幅に下回っていたことが明らかになった[10]。これについて瀬田電鉄側は建設管理業者とビルに使用されていた耐震ゴムを製造した業者を相手取り裁判へと発展した。この訴訟については、後に瀬田電鉄側に製造会社側が3700万円の慰謝料を支払うという形で和解が成立した。この問題により、瀬田駅ビルは再度総リニューアル工事を行い、2014年末に完成した。
この時代まで長らく瀬田電鉄は国鉄時代のATC保安装備を採用していたが、臨海鉄道の保安システムは独自のATOを採用していたこと、倉太急行電鉄との直通に合わせ、直通先である西京メトロの保安システムにも対応させなければならなくなったこともあり、2013年に瀬田電鉄線内の保安システムを一新し、関南ATS+臨海・西京ATOへと統一した。これの影響により、新しい保安設備の増設に迫られ車両も徐々に新しいものに置き換わることとなった。また、老朽化によりバリアフリーなどの問題に課題があった、當辺駅、若部駅などの全面リニューアル工事が進められている。流入路線の増加に伴い、瀬田本線の瀬田~若部の複々線化が行われた。
現在
瀬田駅横の瀬田検車場の需要の増加及び瀬田駅再開発計画に伴い、瀬田駅現1・6番留置線に新たにホームを新設し、瀬田検車区を瀬田駅西側に新設及び移設し、駅ビルの再開発を行う予定である。これに伴い、信号設備及び運用の簡略化から當辺駅のホームも対面式ホームから島式ホーム2本に改修される予定である[11]。工事は同時進行で進行する予定であるが、竣工日時のめどは立っていない。
年表
- 1964年3月1日 瀬田急行電鉄として瀬田市駅〜北若部駅間が部分開業。
- 1965年10月4日 北若部駅〜南若部駅間が開業。
- 1970年5月2日 南若部駅〜東森駅間の工事が竣工。
- 1980年7月4日 資金難を理由に南若部駅以後の延伸計画を断念。
- 1987年4月1日 国鉄分割民営化。瀬田市駅を廃止し瀬田駅を新設することを発表。
- 1987年11月20日 瀬田駅、當辺駅開業。
- 1988年5月10日 瀬田電気鉄道へ社名変更。初の自社車両瀬田1000系を運行開始。
- 1989年
・ 2月7日 瀬田電車両火災事故発生。瀬田電鉄設立以来初の死傷事故。
・ 9月27日 事故調査を受け、1000系電車の順次運行停止を発表。
- 1990年
路線
瀬田本社
瀬田本線系統
- 瀬田線
- 北鳥丘新線
- 南鳥丘線(仮)
- 鳥丘駅からさらに南へと分岐する支線の名称である。2018年現在、大まかなルートのみ決定しており、途中駅および終着駅などの情報は全く公表されていない。
- (名称未定路線)
- 鳥丘西新都心線(仮称)
湾岸支社
- 湾岸線
- 臨海線
他社線との直通
- 倉太急行電鉄 - 2005年2月7日より相互直通運転を開始。倉急烏倉線および七島線との直通となる。当初は瀬田駅から智美丸子駅までの直通であったが、後に烏倉線が砥田市駅まで延伸したことから、常総急行および砥田開発鉄道線への相互乗り入れを開始している。当初は瀬田電鉄内のすべての車両が乗り入れていたが、投入車両の増加に伴い、2600系と2200系、3100系に限定されることとなった。尚、瀬田鯖内では倉急若部~智美丸子駅が建設(移設)されており、更に実際に稼働する保安装置が設置され、瀬田電鉄本線管内との合同でのダイヤが組まれている。瀬田鯖第二回運転会では、瀬田~智美丸子の通常運行が実現することとなった。なお、撮影される写真や映像に瀬田電の車両ばかり移っているため、実質的には瀬田電鉄烏倉線なのではないかなどという噂が立っているが、言語道断であり、そんなことはありえる。
- 瀬田臨海鉄道 - 2010年3月17日より相互直通運転を開始。瀬田電鉄側からは4ドア車のみの乗り入れに限定される。2012年に瀬田臨海鉄道が瀬田電鉄グループの子会社となったことで、瀬田電鉄に正式に組み入れられ、瀬田臨海線と改名されることになった。
関連企業
当初は瀬田電鉄の車両を製造する目的で瀬田電鉄グループ傘下として発足した。ただし、事故など故障率が初期は非常に高かったため、瀬田電鉄とは関係が良いとは言えない状態である。[12] 現在は主に関南地方・および府舘地方などの私鉄の車両を数多く製造している。
2012年に瀬田電鉄グループの完全子会社化し、保有路線は瀬田電鉄の一部として組み入れられた。当初の経営状況は決して良いものとは言えなかったが、瀬田電鉄線との直通開始後は改善の兆しが見え始めている[13]。 独自の保安システムのノウハウを持ち、臨海線の運用はここが担っている。
未だ鉄道路線がない広範囲に路線バスや高速バスを運行している。高速バス事業の一部は倉急電鉄バスと提携している。
車両
初期の車両の製造は全て瀬田車両製造が担当したが、その後は外部業者の車両導入事例が増えている。
車両の配色は概ね白地もしくはステンレス地に赤色のラインが入っているものが一般的である。ただし、湾岸線向け等差別化を図るために紫色のラインを追加している車両も存在する。
現在の瀬田電鉄内で運用されている車両は、1700系など老朽化した車両も多数運用されているが、湾岸線の開業に伴い、瀬田電鉄内の保安設備の更新も追い風となって順次新型車両への置き換えが進んでいる。
現在投入されている車両は一般的にLED式又はLCD式車内案内装置を標準装備するほか、一部の最新式車両は専用のLTE回線を通じて車内Wi-Fiの提供もなされている。[14]
瀬田本線・烏倉線
特記なければ、主に瀬田本線・臨海線・倉急烏倉線で運用、車体塗装は2006年から採用の新塗装。
系列 | 画像 | 摘要 |
---|---|---|
2200系 | 汎用拡幅車両。 現在は主に優等種別に使用されている。2019年より着席保証車両を併結開始予定。[15] メトロ急行は本系列で運転。 | |
1700系 | 登場時は倉急直通用。現在は主に普通種別に使用。 | |
2600系 | 6両固定編成で瀬田本線・烏倉線で運用。 4両編成は臨海線で運用。 3次車以降、新塗装へ変更。 | |
3000系 | 後述の3100系のプロトタイプとして瀬田車両にて製造。 2014年に3100系と仕様統一したため、過去の仕様は消滅している。 | |
3100系 | 3000系の剛体を基にして水音車両にて製造された。湾岸線系統にも優先して配備されている。 | |
3500系 | 秋豆車輌製作所より提供を受けた拡幅車両。現在は主に湾岸線の優等種別に運用されている。 先頭形状が独特の形をしており、併結には基本対応しない。 |
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 新瀬田日報(1965年6月10日付)
- ↑ なぜ”瀬田電鉄“なのか 週刊新進 1989年10月号特集
- ↑ 社内会議録 第13項 瀬田急行電鉄
- ↑ 株式会社も合わせると10文字以上にもなる
- ↑ 鳥丘駅以南の延伸計画について.pdf 瀬田電気鉄道
- ↑ 「鳥丘周辺の鉄道史」 20p
- ↑ 「鳥丘周辺の鉄道史」 177項
- ↑ 鳥丘報知新聞 1988年6月25日朝刊
- ↑ 瀬田重工業HPより
- ↑ 瀬田駅に使用の耐震ゴム、数年で劣化する不良品か Ahoo!ニュース(2012年5月17日)
- ↑ 発端は信号担当者の発言である
- ↑ そのためか、後期の車両になるにつれ外部受注が増えている
- ↑ 臨海鉄道、90年以来初の黒字化 Yahaa!ニュース(2017年3月22日)
- ↑ ただし外国人訪問者及び契約者のみの使用に現在は限定されている
- ↑ 2200系3次車を導入します 瀬田電気鉄道公式サイト