雪々急行鉄道
雪々急行鉄道は、箱日本塗帆地方蒼風県に本社を置く、自称大手私鉄である。略称は「雪急」
種類 | 会社 |
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略称 | 雪急 |
本社所在地 |
箱日本 114-514 蒼風県蒼風市新港区1丁目12番1号 |
設立 | 1980年5月1日 |
業種 | 陸運業 |
事業内容 |
鉄道事業 不動産事業 流通事業 他 |
代表者 | 真冬 雪々 |
資本金 | 豚さん貯金箱から出てきた小銭 |
売上高 | 割といっぱい |
純利益 | いっぱい |
純資産 | いっぱい |
従業員数 | いっぱい |
決算期 | 桜が咲いたら適当に |
会計監査人 | 海景 勘佐人 |
主要株主 | 蒼冬重工業 三城電機工業 |
外部リンク | https://yukikyuofficial.wordpress.com |
概要
雪々急行鉄道は、1980年に三城電気軌道の郊外線部門が独立し、三城市から蒼風県臨港部までの貨物輸送、
及び旅客通勤輸送を目的として、既存路線の改良、一部区間新規建設の上設立された、新興都市間鉄道会社である。
主路線のある塗帆地方の他、他の地方にも2路線ほど雪急系列路線があり、それぞれ真冬支社、真白支社が置かれている。
系列企業には雪急車輌製造があり、雪々急行鉄道の使用車両・設備の製造の他、定期検査などの車両検修を業務委託している。
歴史
雪々急行鉄道の前身「三城電気軌道」
雪々急行鉄道は三城市の半公営鉄道、三城電気軌道の郊外線部門を前身とする。
雪急発祥の地、三城市は、かつて三城国20万石の中心地であり、木工芸品や竹細工などが有名な歴史ある城下町であった。しかし、明治の廃藩置県以降、有力な産業を持たなかった三城市は衰退の一途をたどっており、元三城国城主家の末裔である三城氏を中心とした地元の有力者は、木工業で培った技術を生かして産業機械の生産を始め、積極的に企業の工場を誘致した。その結果、戦中には軍需産業も取り込み、三城は内陸の一大工業都市へと発展した。
そして、この三城市の工業化を大いに助けたのは、「三城御水道(みつしろおみずみち)」とも呼ばれた真冬川の水運であった。室町時代から続く真冬川の水運は、豊富な水量と深さで流れも比較的穏やかなことから、三城国の物流を支える重要な輸送手段であり、三城市の工業製品の原材料の輸入、完成品の出荷も水運によって行われた。昭和の初め、荷揚げ、荷降ろし場のある三城市から、大型の船が付けられる深雪ヶ原の船着き場まで、当時の三城町と地元の資産家などの出資によって、貨物鉄道が敷設される事となった。このルートは三城街道のルートとも一致しており、旅客需要も見込まれたことから、三城電気軌道市内線の電気設備を増強して、全線電化の貨客両用の電車線とした。こうして誕生したのが、「三城電気軌道 郊外線」である。三城電気軌道の電力源は三城電気軌道市内線と同じく、三城南部を流れる湯霧川の水力発電により賄われていたが、電源容量には限りがあるため大型の電気機関車は導入できず、貨物用途では英国から輸入した蒸気機関車が使われていた。
また、同線は貨物中心の路線であったこともあり、朝夕の通勤時間帯を除き、終始のんびりした路線であった。
三城電気軌道の当時のダイヤは、朝夕の通勤通学時間帯のみ4両編成が15分に1本(うち1時間に1本が急行)で、その他時間帯は1時間に2本しか走っていなかった。また、「乗降場」という簡易駅があり、朝礼台みたいな粗末なホームから手を振ると電車が止まるシステムだった。
そのほか、
「乗り遅れた時に駅から列車へ手を振ったら、わざわざバックして戻ってきてくれた」
「台風で変電所が被災し電車が動かせなくなった時、貨物用の蒸気機関車を連結して牽引し切り抜けた」
「運転士が運転中に腹痛になり、列車を止めて沿線の住宅でトイレを借り、帰ってきたら猛スピードで走行し遅れを取り戻した」
「電源が貧弱でときたま電車が坂道で立ち往生してしまい、乗客が降りて後ろから押して登らせた」
など、数々の逸話が残っている。
三蒼新線計画の浮上
そんな三城電気軌道に転機が訪れたのは1970年代、高度経済成長期真っ只中の三城市は急速な発展を迎えており、SLで貨物を輸送し、
それを川船に乗せ換えて輸送するという現在の方式では製品材料・完成品の輸送が追い付かなくなっていた。
加えて、真冬川の上流における森林伐採で川の水量が減少し、土砂災害などによる堆積で川の水深が浅くなってしまい、大型船が遡上することができなくなっていた。
結果、市内の企業達は次第にトラックによる輸送に切り替えたが、三城市は騒音や排ガス公害、道路の渋滞などに悩まされることとなった。
そこで、三城電気軌道郊外線を改良・延伸し、当時、北塗帆地方最大の港であった南蒼風港までの都市間路線を建設する計画が浮上した。
そのルートは、従来の三城電気軌道郊外線を活用して、三城市から深雪ヶ原、その先を東へ進み蒼風県へ入り少し南下、白狐橋という場所まで新規敷設。その先は当時の箱日本国鉄から買い上げた白狐橋貨物線(かつては旅客線だったが当時は廃止されていた)を活用してさらに東へ進み、終点南蒼風に至る路線であった。
しかし、いくら三城市のためになる路線と言っても、半官半民の三城電気軌道が都市間鉄道を建設する事へ反対する声も大きく、この三蒼新線は民営の独立した企業とすることが決まった。
ただ、莫大な額の建設費を要求するこの計画へ、スポンサーとして名乗りを上げる企業は少なく、一時は計画凍結も噂された。そんな中、協力を名乗り出たのは、蒼風市で港湾貿易を営んでいた、真冬雪々だった。彼は蒼冬財閥の子息であり、なおかつ鉄道趣味を持っていたため、鉄道事業への出資に強い興味を持っていた。鉄道運営のノウハウを持っているが資金がない三城電気軌道と、資金とコネはあるが鉄道は未経験分野の真冬。両社の思惑が一致したことにより、三蒼新線計画は一気に動き出した。
真冬はまず、親族が経営する蒼冬重工業を中心とする蒼冬財閥から出資を引き出し、三城電気軌道の経営者、三城倉之助の息子が経営する三城電機工業と引き合わせることにより、三城電気軌道の自車車輌製造部門、三電車輌製造を発展させ、対外向け車輌製造も行う鉄道車両・鉄道インフラ製造メーカーの「雪急車輌製造」を設立させる計画を立てた。そして、鉄道運輸業と車両製造業、二つの事業で支え合うことによる経営安定性を訴え、地元の大手銀行、蒼風國際銀行から多額の新線建設費用を借りることに成功した。こうして、雪々急行鉄道の建設工事が始まった。
開業、そして苦難……
5年間にわたる大工事の末、1980年5月1日、雪々急行鉄道本線が南蒼風~三城市間で開業した。軌間1060mm、全線複線直流電化1500Vの都市間旅客・貨物両用鉄道である。
しかし、開業後しばらくは好調だった客足も、10月が過ぎるころには開業当初の半数以下に低下していた。それもそのはず、1980年代はモータリゼーションの真っ只中であり、雪急開業に先立つ1979年に開通した三蒼高速自動車道の都市高路線バスと自家用車に通勤・通学需要を大幅に奪われていたのである。
雪急は三城電気軌道時代の名残で、三城市を出て一旦真冬川沿いを南下してから、90度向きを変え東の蒼風方面へ向かう線形だったのに対し、三蒼高速自動車道は真っすぐ直線的に三城市から蒼風市の新市街を目指しており、蒼風湾岸都市高速道(蒼風バイパス)に直結して市街へのアクセスが容易であった。
また1970年代、戦前からの港である南蒼風港のキャパシティーは限界を迎えており、1975年に南蒼風の北側へ新蒼風港が建設された。それに伴った再開発事業によって大規模な人口移動が発生、蒼風県の中心的な市街地は南蒼風を有する蒼南市から、いくつかの町の合併で新たに誕生した、蒼風市の港湾部へ移転してしまっていた。
よって、主要な乗客になると予想されていた通勤・通学客は思うように乗らず、旅客部門は営業成績の良かった貨物部門と、新たに設立された車両製造部門(雪急車輌製造)の利益を食いつぶすように赤字を垂れ流していた。
加えて、雪急は仮にも「急行鉄道」と付いているにも拘らず、あまり速達性に優れてはいなかった。全線複線であるからとあまり退避駅を設けていなかったため、通勤再速達種別の「急行」はもとより、一応特別料金を取っていた「特別急行」でさえ、緩行列車の退避追い抜きが思うように行えず、それなりに所要時間がかかっていた。
そして、旅客部門の経営悪化に拍車をかけたのが、当時の経営陣に根付いていた「貨物第一・旅客軽視」の思想であった。元々の建設理由が三城市から南蒼風港までの貨物輸送であるから、当然と言えば当然の思想ではあるのだが、それは建設に掛けた莫大な資金を回収する為に、旅客輸送が必要不可欠であるという現実への認識に欠けるものであった。
その体制の悪い例とも言われるのが、開業と同時にスタートした着席保証列車の「特別急行」種別の特急列車であった。開業時に新製された一般通勤型の8000系電車、その2扉ボックスシート版と言える18000系電車で運行されたこの特急列車は、遅い・高い・値段の割に快適でない……と三拍子揃った不人気列車であり、朝夕の通勤時間帯でもほとんど空気輸送となっていた。
雪急大改革「ハチゴ―計画」
雪急の開業から2年が経ち、旅客部門の収支はますます悪くなっていた。この経営状況に危機感を覚えたメインバンクの蒼風國際銀行は、建設資金として貸し出した資金の回収を急ぎ始め、追加の融資を渋りだした。
このままでは資金繰りがますます困難になり、事業改善もままならずに10年以内に経営破綻するという試算も出される中、出資者の真冬雪々は事態打開へ動きだす。真冬は自身の港湾貿易会社の経営権を売り渡し、雪急の事業改善資金を確保。自ら雪急の社長へ就任し、経営改善に向けて新たな事業計画を打ちだした。
それは、1985年までに準備を進め、1985年から1990年までの5年間で収支を回復させる、「ハチゴー計画」と呼ばれる経営改革案であった。
まず一つ目は、路線の始点の変更。当時の雪急本線は炉里河合駅から再度南へカーブして白狐橋駅を目指していたが、これを新線建設により炉里河合からまっすぐ東へ路線を延ばし、蒼風市の中心部への乗り入れを目指した。そして、雪急本線は蒼風中央~三城市とし、南蒼風~炉里河合は雪急蒼南線に名称変更することにした。
二つ目は、旅客サービス改善・観光需要の掘り起こしだ。観光振興の起爆剤として、展望特急の9000系DeluxeExpressをデビューさせ、三城市駅の乗換路線であった湯霧登山鉄道への直通を開始。蒼風中央から有名温泉地の湯霧温泉郷玄関口、湯霧湯本駅へ向かう、観光特急のイメージを打ち出した。そして、色々と不評であった特急型の18000系は急行や快速急行の一部列車に割り当てることとし、特別料金の徴収を廃止。これは後に近郊型座席電車やライナー電車導入へのきっかけとなった。その他にも、旅客尊重主義の雪急社訓三ヶ条を定め、社員研修などを徹底。サービス向上に努めた。
三つ目は速達性の向上。蒼風中央~深雪ヶ原間を複々線とすることを目指し、土地買収を進めることで速達列車を邪魔しない運行ダイヤを目指した。また、電源設備を強化し、車両のMT比を向上、駅間での高加減速化と高速化を目指した。
苦難の新線建設期
ハチゴー計画は、雪急の変革の為には必要な改革であったものの、あまりにも大胆で莫大な額の投資計画だったため、1985年頃にかけては非常に苦しい経営を迫られた。開業当初の借金を抱えたままでの更なる投資は雪急にとって大博打であり、銀行からもリスク過大と評価され、融資は受けれなかった。そのため、真冬は自宅や自家用車などを売り、私財をほぼすべて投じてこの改革を実行した。資金難の中、一番の課題となったのは新線用地の買収費用であり、怪しい格安土地買収代行業者(株式会社お父さん)に頼んだために、当時三城市にあった本社ビルを騙し取られたりもした。この時、新たな本社オフィスを購入する費用すらもったいなく、各地の格安貸しオフィスに各部署を分散させて、社長室と本社住所は、真冬が知人から5万円で譲り受けた、廃墟のような狭小ビルに置かれたこともあった。
この時期、車両の新規設計費を削りつつ、新型車が導入されたかのようなイメージを持たせるため、増備分の8000系2次車は前面デザインだけ変えて同じ車体を使いまわしたことは、雪急ファンの間でことに有名である。
経営回復、未来へ……
ハチゴー計画は功を奏し、経営状況は徐々に改善に向かって行った。1995年頃には資金的に余裕が生まれ、完全新規設計の新型電車1000系がデビュー。1996年には白狐橋駅より井原急行電鉄への直通を開始。2017年には老朽化した9000系DE車に次ぐ新型ハイライナー「10000系WE」のデビュー。2020年代には連絡船での他地方連絡直通が計画されている。